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第7話 ふぐの歴史を紐解く-俳句編- シリーズその②

2014.7.27 カテゴリー:とらふぐのあれこれ, ふぐの歴史について

有名なことわざに、「ふぐは喰いたし、命は惜しし」とあります。美味しいフグ料理は食べたいが,死ぬのは恐ろしい。てっぽうを食べて死ぬことを考えれば、食べるか否か踏み切れない様子を表しています。

江戸時代に活躍していた、松尾芭蕉と小林一茶は、ふぐの俳句を詠んでいます。

◎松尾芭蕉編
1644年、芭蕉は江戸時代初期の伊賀国上野(三重県)に産まれました。井原西鶴、近松門左衛門と並んで、元禄3文豪に数えられます。芭蕉は、18歳で藤堂藩の侍大将の料理人として仕えます。主人の死で武士をやめ、俳句の世界に身を投じていきます。
「おくのほそみち」に、〝月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。…〟私達が小学生の時に習った、有名な序文ですね。
有名な俳句にも触れておきましょう。

-松尾芭蕉の有名な俳句-
・閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声
・古池や蛙(かわず)飛込む水の音
・梅が香にのつと日の出る山路かな
(私の小学時代の教科書より抜粋)

-松尾芭蕉のふぐを呼んだ俳句-
・だまされてくわずぎらいがふぐをほめ
~フグを食べない人に別の魚の名を言って、騙してふぐを食べさせたら、うまいう
まいと褒めたの意味。~
・ふぐ汁やあほうになりとならばなれ
~鰒(ふぐ)汁の毒にあたって阿呆(あほう)になればいいの意味。~
・あら何ともやなきようは過てふくと汁
~ふぐ汁を食べて死にはしないかと思いきや、朝の目覚めて、身体は何事もなくしている意味。~

◎小林一茶編
1763年一茶は、信濃国柏原(長野県)に産まれました。一茶のつくった句は2万句以上と言われ、正岡子規と並び日本最多の俳句を詠んだことでも有名です。一茶は、14歳で江戸に奉公に出て、大変苦労したことが書籍に残っています。25歳の頃、松尾芭蕉の俳句に憧れ、小林竹阿に師事して俳句を学びます。
では、小学校の頃学んだ有名な俳句を紹介します。

-小林一茶の有名な俳句-
・やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり
・雀の子そこのけそこのけお馬が通る
・やれ打つな蝿(はへ)が手をすり足をする
(私の小学時代の教科書より抜粋)

-小林一茶のふぐを呼んだ俳句-
・鰒(ふぐ)食わぬ奴には見せな不二(富士)の山
~ふぐを食べる勇気も無い者に、富士山を見る資格はないの意味。~
・五十にて鰒(ふぐ)の味知る夜かな
~50歳になって初めてフグを食べた。こんなに美味いものだったと知る、ある夜の意味。~
・鰒(ふぐ)汁や侍部屋の高寝言
~ふぐ汁を食べた武家屋敷の者が、夢にうなされて寝言を言っている意味。~

-偉人2人の考察-
ふぐについて、松尾芭蕉と小林一茶が俳句を詠んだことは、江戸時代の大衆のふぐ文化を知るきっかけとなりました。芭蕉と一茶の違いは、芭蕉は、江戸初期の生まれであり、大衆の中でふぐ中毒が多発していたことから、ふぐを恐れた俳句が多かった。江戸後期の一茶は、ふぐ汁の文化庶民にも浸透し、共にふぐ汁を食べていたことから、大衆の中で馴染みのあるふぐ文化を詠んでいる俳句が多い事でしょう。まさに、「ふぐは喰いたし、命は惜しし」の時代ですね。平成に入り、ふぐ中毒になることもほぼ稀で、飲食店ではなく、家庭で調理したふぐで中毒するケースが年に数件ある程度です。

では、私も一句
「ふぐ旨し食べるあなたに福来たる!!」
(福の宅配人こころの俳句より)

第7話は、ここまで。第8話をお楽しみに。

天草海産 3代目 〝福の宅配人〟太田雄三

第6話 とらふぐの呼び名について

2014.7.11 カテゴリー:とらふぐのあれこれ

水槽を泳ぐ〝天草とらふぐ〟の水中写真です。

水槽を泳ぐ〝天草とらふぐ〟の水中写真です。



全国では、大きさをイメージしたクマフグ、オオフグや、トラの黒紋やをイメージした、クロモンフグ、モンフグ、ダイマル、白いしりヒレをイメージしたシロ、シロマルなどがあります。また、大分県では、ゲンカイフグ、和歌山県では、オヤマフグなどと呼ばれています。

その中でも、とらふぐの名前の由来が興味深いものをいくつか紹介します。

本場の北九州や下関では「ふく」と呼ばれるています。「不遇」を連想する「ふぐ」ではなく、「福」=「ふく」と呼ぶのです。私も、福の呼び名が好きですので、「福の宅配人」を名乗っております。

私が生まれた大阪では、ふぐ鍋を「てっちり」と呼ばれ、「てっ」は「鉄砲」、鍋物のことを「ちり」「ちり鍋」といいます。つまり、「鉄砲のちり」を略して「てっちり」と呼ばれています。また、フグ刺しを「てっさ」「てっ」は「鉄砲」、「さ」は「刺身」の意味であり、「鉄砲の刺身」を略して「てっさ」といいます。昔の鉄砲は精度が低いものの、〝当たれば死ぬ〟という洒落から、ふぐを鉄砲と呼ぶようになったと言われています。本当に、関西の〝洒落たトンチ〟ですね。驚いたことに、現在は関西でふぐを「鉄砲」と呼びますが、「鉄砲」の由来は、江戸時代の関東で使われていたのです。

また、瀬戸内で取れるふぐ(ヒガンフグ、コモンフグ、ナシフグ)をナゴヤフグと呼ばれています。ふぐ中毒になれば、身の終わり=美濃尾張というこれまた〝洒落たトンチ〟ですね。

最後に九州長崎のふぐは、「がんば」と呼ばれています。名前の由来は、〝命がけで棺をそばに用意してでもフグを食べたい〟を長崎弁にすると、〝命がけでがんばそばに用意してでもフグを食べたい〟ということから「がんば」と呼ばれるようになったといいます。

昔からふぐは美味しいけど、命がけで食べていたんですねぇ。しかし、ご安心ください!!

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第6話は、ここまで。第7話をお楽しみに。

天草海産 3代目 〝福の宅配人〟太田雄三

 

 

第5話 ふぐの歴史を紐解く-日本編- シリーズその①

2014.7.4 カテゴリー:とらふぐのあれこれ, ふぐの歴史について

 

水槽を泳ぐ〝天草とらふぐ〟の水中写真です。

水槽を泳ぐ〝天草とらふぐ〟の水中写真です。



 我が国日本でいつ頃から〝ふぐ〟は食用とされていたのでしょうか?

 縄文時代に、貝塚からフグの歯が発見されていることから、2000年前から食べていたのではないかと、考えられています。どのような食べ方をしていたのかは不明ですが、沢山の人が無くなったのではないかと、言われています。

 日本の歴史の中で、「ふぐ」にまつわる歴史上の人物は、〝豊臣秀吉〟〝伊藤博文〟〝坂東三津五郎〟と言えます。それでは、ふぐの歴史を紐解いてみましょう。

  文禄元年(1592年)、豊臣秀吉は「フグ食禁止令」を発令しました。秀吉は、朝鮮出兵に向けて16万の兵士を佐賀県の名護屋に布陣させた折、フグを食べて命を落とす者が続出したためです。人数は明らかではありませんが、戦に行く前に多量の兵士が死んだことが敗戦につながったと考えられます。また、政権が徳川家に変わった後も、武家の主がフグを食べて命を落とした折は、「家名断絶」という処分がされていました。

  明治21年(1888年)、下関でフグを食した初代総理大臣の伊藤博文は、あまりの美味しさに感動し、山口県のみでフグ食を解禁しました。老舗割烹旅館「春帆楼」に立ち寄った時、しけが続いて漁もできず魚がないため、女将が禁令を承知の上で、〝とらふぐ〟をだしたところ、伊藤博文は、「こんな美味しいものを禁止するのはおかしい」と当時の山口県知事に申し出たことでフグ食解禁となり、全国に広がりました。今日、私達がとらふぐを養殖出来るのも、伊藤博文のおかげと言えます。

  昭和24年(1949年)東京都は、「フグの取締まりに関する条例」を制定して、フグ処理師の免許が交付されました。フグ処理師の免許は、各都道府県の条例や要綱で定められています。しかし、岩手県と山梨県の2県だけは、フグ処理師の資格がありません。また、講習会のみで資格が交付される県もあり、一部の専門家は、フグ処理師を国家資格として統一できないものかと疑問視する声もあります。

  昭和50年(1975年)、歌舞伎役者で人間国宝の八代目坂東三津五郎は、とらふぐの肝による中毒で急死し、世間を驚かせました。坂東三津五郎は、好物であるとらふぐの肝を4人前も食らげ、フグ中毒で亡くなりました。この事件は、「もう一皿」とせがむ坂東三津五郎に板前が料理を出したことが争点となりました。業務上過失致死罪及び京都府条例違反で執行猶予付の禁固刑という有罪判決が出ました。特に、とらふぐの肝臓と卵巣は、ふぐ毒(テトロドトキシン)という猛毒を有していることは、ぜひこの機会に皆さんに知って頂きたいと思います。また、家庭で調理する時は、フグ処理師が処理したフグを召し上がって下さい。

 第5話は、ここまで。第6話をお楽しみに。

 天草海産 3代目 〝福の宅配人〟太田雄三